昭和五十年九月十九日 朝の御理解
御理解第三十一節信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。
 一切のものにお礼を言う心持ちになれと、そう言う心持ちにならせて貰う稽古をするのです。一切の亊に有り難うございますとお礼の言える心です。それを真から言える、それを普通から言うたら、有り難い亊でもなからねば、むしろ困った亊だと言う様な亊にでも、お礼が言えるようになる。 そこには、限りなく恵まれる世界が広がって参ります。限りなくおかげの頂ける世界。そういう世界に住まわせて頂ける。私共の願い、それは神様の願いでもあるわけです。神様の願いと私共の願いが一致○が出る様な信心生活をさして貰って、おかげを頂きたいと思います。 そこで、木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心、一切のものにお礼を言う。中々忘れます。 そこで私は思うのですが、立つときには礼を言う心持ちにならせて頂くその前の信心がいるのです。言うならば木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つときには、でなくて木の切り株に腰を下ろして、と言う時に既に、お礼を申しますと言う心がいる様です。例えて言うと自動車に乗って、降りる時にはおかげで助かりましたとお礼を言うのでなくて、もう乗る時に、どうぞお礼を申しますと言う、私は信心が要るようです。下駄を履かせて頂くでも、履かせていただきますという心をもって、そしてまた、それを脱ぎ捨てる時に有り難うございましたという。そう言う心持ちがね、出来て来る。もう、四六時中、何事でもすべての亊にいうならば、お頼みであり、お礼であり、そういう稽古が段々、必要になって参ります。ですから、何でも良い。兎に角お礼を言うときゃ、え-。有り難うございますと、良いと言う亊になります。それが本当に実感としてお礼を言わなければおれない、と言う信心に進んで参ります時、私は初めて限りないおかげにつながる。口だけではない、心の底からお礼が言えておる。しかもそれが、どういう事柄、どういうことに対してでもと言う時になるとき、私はもう、確かにこの氏子にはどういうようなものをやっても喜ぶ。この氏子にはどういうおかげを授けても、それを粗末にしないと言う亊が分かる時に、神様はもう頼まんでも下さると言ったような、働きが生まれて来るのじゃないかと思うですね。それでここんところは、言わば木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ち、心持ちはなくてもね、そういう心持ちを作る亊を稽古する。ところが中々ね。 昔、久保山先生と言う方が居られました。自転車で善導寺から参って見えるんです。もう本当にこればっかりは不思議なことじゃある。その自転車から降りてから、有り難うございますと、お礼を言う亊をもう忘れると言う亊である。もう、迂闊と言えば、迂闊だと言うわけです。本当にねもう、本当にその気になっとかなければ出来る亊じゃありません。いかに、四六時中、神様のおかげでと言うことと思うておらなければ出来ません。これはもう、本当にですね、それが段々、本当のものになっておると、例えば自転車からでなく、自動車でも降りる時にやっぱり、合掌しなければ、お礼を言わなければ居られない。しかも、それが、木の切り株に腰を下ろしても、というのですから、いうならもういらないもの、迷惑になるような亊からでもそう言う心持ちを作って行く亊が大事だと思います。 昨夜、一時頃だったでしょうか。家内とやすんどります孫が声をひそめて泣きよります。あんな泣き方をするのは初めて、わ-んと泣くのじゃないです。遠慮しながら、声を殺して泣いているのです。しばらく辛抱しとりましたけれども、どうあるとか、と言いましたら足が痛いというのである。私の方には不思議な寝方の、○先生が小さい時がそうでした。夜中に、ひ-って泣くのです。足が痛い、足にめぐりがあるのですね。私の親戚、私の両親、皆、足が悪かったです。私も一時、足が立たない亊がございました。原因が分からないんです。夕べもその足がいたいと言うて泣いとります。それから夜中に、私はここにに出て参りました。お願いしよりましたら、家内と聡子とここに、出て来とりますもん。そして聡子が言う亊にね、おじいちゃまが御祈念しよるけんで自分も、御祈念にいったら治ると思うのでしょうね。おばあちゃん、御広前にいって御祈念すると言うので、それからまた、ここでじいさんと、ばあさんと、孫と三人で御祈念をさしていただいて、御祈念が終わった時には、もう痛いも何も言いませんでした。ところが、私が夕べから頂くのです。もう寝ながら、ず-っとこうしとらんならん位(揉む様子)。大体が痛いのですけど、特にいたむのです。不思議な亊もあるのですね。孫はだからすぐ、やすみました。家内もすぐ寝すみました。私だけが、今朝まで、自分でず-っとこうして、叩いたら、揉んどるごとあるです。と言う位痛むんです。例えば、痛い、痒いがない時は、本当にお礼を申しあげねばおられんのですけど、どうかあってみないと、そのお礼を申し上げる亊を忘れております。そこでいうなら、、どうかある亊もまた、お礼を言わなければならんことがわかります。どうかあって良くなった時に有り難いと言うのでなくて、どうかあるという亊もです、今までお礼を言わなかった亊に対する、お礼が云えるのですから、やはりお礼を云わなければいけないと云う亊です。 同時に子供ながらそういう体験、そういう実感です。お神酒さんをつければおかげを頂く。御祈念すればおかげを頂くと云う亊を段々信じてくる。それが分かって来る。昨夜も皆さんに聞いて頂いた様に、おかげをおかげとして、おかげを土台としておかげと云える信心。変な言い方ですけどね。とにかく有り難くお礼を申し上げれる。その心をもってお願いをする。おかげを頂いてる亊は沢山ございます。唯、痛ければ痛いところだけお願いします、云うのではなくてです。その痛い亊のあるおかげでです、日頃は気も付かなかった亊に対して、例えば今日は足も痛んでおりません、手も痛んでおりませんと云うような時には、今日は本当に丸のまま健康のおかげを頂いておると云う亊をです、もう心の底からお礼が云える亊になって来なければならない。健康なら、健康のおかげを頂いておるそのお礼を土台として、様々の難儀な問題というか、様々なお願いをせねばおられない。そいう有り難いとして願わなければいけないと云う亊です。 信心するものは木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を云う心持ちになれよ。そこで立つ時だけではない。立つときにお礼を云う亊はもちろんの亊、ですから、その木の切り株に腰を下ろして休んでも、下ろす時に既にお礼をいわなければならない。車に乗せて頂きますというお願いをしなければならない。車に乗る亊をお許しくださいとその亊をねがわなければならない。そして初めて降りる時に有り難い。金光様の信心ちゃ、面倒くさい。そげん、ず-っと、例えば云うとらんならんと云う様な気もするんですけども、そういう心持ちを常に持っておけと云う亊です。言葉に出して云わんならん、どうこうじゃない。云うなら、神恩報謝の心をいつも持っておけと云う亊なんです。 だから稽古です。面倒臭いけど稽古をしなければつけません。稽古して行くうちに痛い目に会ったり苦しい目に会ったりすることがあります。そしてそれをおかげと頂きます時に実感としてお礼が云える。実感としてお礼が云える土台には、苦しかった亊、痛かった亊がありますから、お礼がいえると云うような信心がです、だんだんに出来てきますから、もう、それこそ神様が喜んで、しかも頼まんでも願わんでもおかげを下さると云うような、信心の世界。云うならば不思議な世界に住む亊ができます。不思議に感謝の心持ちを持っておりますときに確かに不平が出ません。不足がありません。 あれは感謝の心持ちが礼を云う心持ちがないときです、不平がでるのは。不足がでるのは。ですからそういう、おかげの頂けないいわばおかげの頂ける心と、おかげの受けられない心がある。そのおかげの受けられない心の状態にならんですむ、予防の為にもその心持ちを作らなければいけません。不平、不足が出ン、云うならば愚痴をいわんで済む、腹を立てンで済む。たったこれくらいの亊でどうしてこげん腹が立つじゃろうか。ようと調べてみると感謝の心がない。礼を云う心持ちがないと云う亊なんです。 どうでも一つ、おかげをいただきまして、木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を云う心になれよ。そういう稽古です。実感としてお礼を云う心はなくともです。所が不思議な亊ですね。例えば自動車で送ってもらう、降りると礼を云う心と、有り難うございますと礼を云う心をです、本当にこの自動車に礼を云う、合掌して有り難うございますと云う風にです。本当にこの自動車のおかげで歩かんですんだのですから、しかもここに、無事に着いたのですから、そのお礼を云うものは、段々広がって行くものです。お礼を一言云いよったら、不思議です。段々お礼が広がって行くのです。だからお礼を云う心持ちも本気でつくらしてもらう、稽古を本気でしなければいけません。 そこには不平、不足もなくなってくる。腹立ちも段々なくなってくる。そして痛いことに対してもお礼が云える様になる。それを私は愈々、孫の足の痛いと云う亊から感じさせて頂きました。お願いをする亊によっておかげを頂く。おかげを頂く亊によって有り難うございますと云うことではなくて、この痛かった亊によって、日頃のお礼不足を改めて感じさせて貰う。ですから痛かった亊もまた有り難いと云う亊になるのです。これは痛い、痒いだけではありません。全ての事柄の上においてもそうです。ああ、難儀な亊だ、困った亊だと思うておることがです、難儀だ、困った亊だとおもうておったおかげでと云うもの○○○○ために、一切にお礼の心持ちが出来た時です。 これが自分のものになるために神様はもう、限りないおかげをくださいます。それこそ、不思議な、ふしぎな有り難い世界に住む亊ができるのです。そういう有り難い世界こそ、信心のあるものとないものが、親のある子とない子の違いと言うものがそういう亊ではないでしょうかね。           「どうぞ。」